●生かされている生命−許されて生きる
●路頭・托鉢の生活−感謝と報恩行
●懺悔・下座の生活−わびあい・拝みあい
●一燈園生活の願い−皆倶成就大円覚 将来世界真平和


 
生かされている生命−許されて生きる

 人間は生きんがために食べ、食わんがためには働かねばならないといいます。そこには人間は生きることが目的であり、食べることを目的として働くのが人間であるという、人間観、人生観があります。 

 ところがそれを180度転換させて、この生命は授かりものであり、生きようとしなくても生かされており、生かされているから感謝して働かせてもらうのだ、そのために必要な食は求めなくても与えられるのだ、という生き方をしたのが西田天香さんであり、その生き方、人間観、人生観に立っているのが、一燈園生活です。

 人間の歴史と社会をかえりみても、生きんがため、食わんがためという生存欲求、権利の主張が、人間社会の対立やさまざまな争いの原因となってきました。

 生きんがため、食わんがためとは、つまり「生きんとする意志」ですが、これを否定して人間は生存できるのでしょうか。自己の生存権を主張しないで、果たして人間はいきていけるのでしょうか。

 西田天香さんは、まさにその生存権を完全に放棄することによって絶対に争いの種をつくらない生き方を創められたのです。

 天香さんは20歳の時(1892年=明治25年)北海道に100戸の農家を率いてわたり、500ヘクタールの開拓事業に従事しました。やがて出資金をめぐって出資者と耕作人との対立に悩み、さらに日清戦争が起こったことも重なって、なぜ人間同士が対立し、憎しみあい、争わなければならないのかという、大きな疑問の虜になってしまいました。 絶対に争わなくてもよい生き方はないのか ―― 。考えつめたあげく、事業のすべてを他の人に委ねて裸一貫になり、故郷長浜の小さなお堂の縁側に座り、その答えが見出せぬうちはひと口の食も口にすまいと、死を覚悟して断食を続けました。

 4日目の未明(1904年=明治37年4月29日天香さん32歳)に赤ん坊の泣き声を聞き、それが泣きやんだ時に、母に抱かれてお乳を飲んでいる赤ん坊の情景に思いいたり、ハッとしたのであります。母と子、そこには乳の供給者と需要者の相反する二つの立場がある。しかも、両者ともに満ちたりた喜びのなかで、一つとけあった平和の姿がある。立場は相反していても、とも喜びの和の世界――これが生命の原点ではないか。そして乳もまた天与の自然の恵みにほかならない。

 人は自ら生まれようとして生まれたのではない。生命はその意志を越えたもの(大自然・神・佛)によって授けられ、生かされている。ここにあるゆる生命誕生の真の姿があり、あらゆる生命生存の実体がある。その本来の姿においてこそ、ともに喜び合える和の世界が現れてくるのだ。いっさいを大いなるものに委ねきって、ただ生かされるままに、許されるままに生きていけばよい。これこそ争いのない世界の源であり、ここに互いに生きて喜びあい、食べていささかの対立もない世界がある。

 これこそ探し求めていた答えだと、天香さんは悟られたのであります。

 これが一燈園生活の出発点となったのです。


路頭・托鉢の生活―感謝と報恩行 

 一燈園生活は、生命本来の姿にかえって自然にかなった生活をすれば、人は何物も所有しなくても、働きを金に換えなくても生かされるものであることを信じ、つねに路頭の立場で無所有奉仕の生活を行っていくのです。

 人間はもともと無一物で生まれ、生命を授かったものであります。自分のものといえるものは何もなく、権利を主張できる何物もありません。無一物、無所有こそ人間本来の姿だといえます。

 「路頭」も、この無一物所有の本来の姿、原点にほかなりません。人間のあらゆる争いの源には、欲望や利己心があります。そして財産や地位、名声などに執着しようとします。こうした欲望への執着心を断ち切り、利己心を浄化させて本来の姿に変えることが必要です。それを「路頭に帰る」といいます。身についたもの、集まってきたものをすべて「おひかり」(現実の生活をも救う神または佛・大自然)のもの、全体のものとしてお返しし、―許されて預かりものとして扱うこともあるが、―常に無一物の立場で路頭にいて「路頭に迷う」のではなく、「路頭に帰る」のが人間本来の姿でなければなりません。

 「托鉢」ということも、天香さんの北海道での体験から生まれています。開拓事業の出資金と利子の問題から、人間の醜さ、生存競争の浅ましさというものを痛感せずにはおられなかったのです。

 人を対立させ、醜い争いをさせるものはお金です。金のいらない生活はないものか。それは働きを金に換算しなくてもよい生き方でなければなりません。たとえば親と子、あるいは夫婦・家族のように、本当の愛情によって一つに結ばれていれば、働きを金に換算しないで無償で他に捧げていきます。愛は無償のものだからです。つまり、働くということは、儲けのために生きんがためではなく、自分が他の働きによって生かされているように、自分もまた他のために心と力をつくしていくことなのです。托鉢することなのです。

 しかしそれを他の人に要求するわけには生きません。まず自分からはじめることです。自分を無にしてすべてを他に捧げることです。それによってはじめて他と一つになることができるのです。

拝むというのは自分をなくするのです 

自分を無くすると全体が自分である(天香さんの言葉)

 これが路頭・托鉢の生活です。それで、一燈園生活を「托鉢の生活」ともいわれます。いわゆるお坊さんの托鉢とは違います。

己が身はかえりみずして人のため

つくすぞ人のつとめなりける(明治天皇御製)

一燈園では毎食後にこの歌を唱えています



懺悔・下座の生活―わびあい・拝みあい

 人間はもともと自分本位で利己的なものであり際限のない欲望を持っています。安易と快楽を求める心や他に対する優越感などもあり、知らず知らずのうちに他を傷つけ、ねたみ心や怨み憎しみなど、さまざまの障(さわ)りをつくり出しています。 生きていること自体が多くの人の汗と涙の上になりたっており、さらには動・植物の生命の犠牲によって生かされているのです。

 結局人間は自分の正しさや権利を主張できる何物でもなく、むしろ自分の中にいつもある自我的な気持ちを深く反省し、他に与えつくり出しているところの障りの罪深さを詫びていくよりほかにないのです。

 なべて世の障りの根をばだずねゆきて

 己が罪とぞかえりきし行願(わざ)
(天香さんの行願歌)

 単に自分自身のことだけでなく、世のさまざまな障りの根を自らの中に見つめていく深い懺悔の心を持ちたいものです。

 生活のすべてにおいて他を責めたり避難するのでなく、互いにまずじぶんのいたらなさをかえりみる。そしてつねに他より下に自らを置き、悩める人、弱い人の立場で生活することが「下座の生活」であります。

 人々が互いにこのような気持ちを持って日々の生活や仕事に心をつくし、励みあっていけば、争いの生まれる余地はありません。 


 
一燈園生活の願い― 皆倶成就大円覚 将来世界真平和 

 一燈園生活の窮極の目標は、戦争がないということでなく、あらゆる対立、憎悪、怨恨、争いを生み出すものを根切れさせ、種をつくり出さない、本当の心の平和ということにあります。そうして、家がととのい、国が治まり、世界に真の平和が実現することを祈っていくことにあります。

 この世に生まれ出た時のように、自分の物はなにもないという路頭の心に立てば、この世のあらゆるものは仮に預かったものにすぎません。財物も、地位、衣食住、知識や身体さえも、どう預かり、それを全体のためにどう使わせてもらったらよいか厳しく問いかけて扱っていくことを、「宣光社」といっています。つまりこれは現実に生きていく人間の生活そのもののことなのです。

 一燈園生活には、捨てていく無の立場「一燈園」と、預かる有の立場「宣光社」の二つが、車の車輪のように一体となってあるのです。

 皆倶成就大円覚―地球上の人間がすべて本当に自覚した人間になることは、無限のかなたにある道標かも知れませんが、しかしそれを永遠に祈り続けていくことが私達の道なのです。

 将来世界真平和―世界の真の平和も、永遠に達成することのない願望なのかも知れません。しかもなお私達はそれを信じ、悲観もせず、楽観もせず、永遠に祈り続けていくことの中に、人間の尊厳と栄光があり、未来があるのだと思います。  


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