西田天香さんと一燈園生活の始まり

坐禅する天香さん。長浜慶雲閣にて 明治38年
天香さんは明治5(1872)年、滋賀県長浜市の商家に生まれました。明治26(1893)年22歳の時、100戸の農家を率いて北海道にわたり、500ヘクタールの開拓事業に従事します。しかし、出資金をめぐる出資者と耕作人との対立に悩まされ、また折からの好不況の波が日清戦争に遠因をもっていたことも重なって、生きてゆくにあたって、人間はなぜ対立し、憎しみあい、争わなければならないのかという、大きな疑問の虜となってしまいます。
――畢竟ずるに、争いの原因は、食ということに由来する。争いの種とならない食はないものか――。考えつめたあげく、天香さんは、事業のすべてを他の人に委ねて裸一貫となり、故郷長浜の小さなお堂の縁側に坐(すわ)り、答えが見出せぬうちはひと口の食も口にすまいと、死を覚悟の断食を続けました(明治37年)。
3日目の夜明け、赤ん坊の泣き声が聞こえました。泣き声のやんだ時、母に抱かれてお乳を飲んでいる赤ん坊の情景に思いいたり、天香さんはハッと気づいたのです。「嬰児(えいじ)はその乳汁のために少しも努力しない。母もそうだ。自然に恵まれて二人とも助かる」。互いに生きて喜びあい、食べていささかの対立もない姿、一つにとけあった平和な世界の姿、これが生命の原点ではないか。
人間はもともと無一物で生まれ、生命を授かった。無一物無所有(むいちぶつむしょゆう)は人間本来の姿であるとも申せましょう。一燈園生活では、生命本来の姿にかえって、人は自然にかなった生活をすれば生かされると信じて、無一物無所有の立場を胸に感謝と報恩の生活(一燈園では「托鉢(たくはつ)」と呼んでいます)を行っていくのです。
天香さんの周囲にはしだいに賛同者、随行者が集うようになりました。1917(大正6)年には、天香さんと寝食を共にしたこともある作家倉田百三(くらたひゃくぞう)が、戯曲『出家とその弟子』を発表。戯曲に登場する親鸞聖人のモデルは天香さんではないかと話題を集めました。また、1921(大正10)年には天香さんが『懺悔(ざんげ)の生活』を出版。一燈園と天香さんの名は世に広く知られるようになりました。

