西田天香(1872〜1968)

西田天香は、明治五年滋賀県長浜の商家に生まれました。二十歳にして長浜地方の小作百姓家族と率いて北海道に渡り、500ヘクタールの土地の開拓事業に従事し、その将来は事業家としても大いに嘱望されましたが、開拓事業をす すめる中で起こった資本主(出資者)と現地耕作者との間に生じた利害の対立、争いに直面して、天香は大いに苦悩し、それを契機として、より深く人間の生きる姿、根本にある宿業の醜さをみつめ、一転してついに開拓事業そのものを他に委ね、人間としての争いのない生き方を求めて求道の日々を重ねたのでした。

 そして、とうとう「争いの因となるものは食べまい」と決意し、三日三晩の断食籠坐の果て、赤ん坊の泣き声を耳にして大霊覚、そこに争わずとも恵まれる食があること、生命の原点を見出し、世にいわゆる「一燈園生活」を創めたのでした。

 それは、無一物・路頭を原点としての懺悔・下座の奉仕、許されて生きる「托鉢」の生活であったのです。その事実に立って大正10年「懺悔の生活」が出版されるや、西田天香と一燈園の名は 一挙に世に知れるにいたり、多くの人が道を求めて天香のもとに集まるようになりました。

 大正8年、第一次世界大戦後、国際連盟発足と同時に、生活の中からの平和を願って六万行願(お便所の掃除の祈り)をはじめ、また大正の終わりから昭和にかけて、日本各地のみならず、当時の朝鮮半島から満州(中国東北地区) 、更には中国本土に、そして又アメリカ各地、ジャワ島にも請われて同行者と共に渡り、徹底した下座の路頭托鉢をしています。その故に当地の人々から天香は、日本の聖フランシスコとも、日本のガンジーとも称されたのでした。

 このような祈りと生活を共にする中で、やがて一つの生活共同体ができ、昭和4年、京都・山科(現在地)に、宣光社形態の「光泉林」が財団法人として認められことになりました。そこでは印刷出版の事業をはじめ設計建築、農事研究所の他、劇団としての「すわらじ劇団」や幼稚園から高等学校までを含む教育機関をもち、路頭を基本としての 俗諦成就の生活を試みています。

 西田天香その人は、昭和43年(1968)2月29日、96歳をもって帰光(逝去)しました。


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