一燈園とは

一燈園生活における托鉢と食

 一燈園生活は、生命本来の姿にかえって自然にかなった生活をすれば、人は何物も所有しなくても、働きを金に換えなくても生かされるものであることを信じ、つねに路頭の立場で、無所有奉仕の生活を行っていくのです。
 人間はもともと無一物で生まれ、生命も授かったものであります。自分のものといえるものは何もなく、権利を主張できる何物もありません。無一物、無所有こそ人間本来の姿だといえます。
 「路頭」も、この無一物無所有の本来の姿、原点にほかなりません。人間のあらゆる争いの源には、欲望や利己心があります。そして財産や地位、名声などに執着しようとします。こうした欲望への執着心をたち切り、利己心を浄化させて本来の姿に帰ることが必要です。それを「路頭に帰る」といいます。身についたもの、集まってきたものをすべて「おひかり」(現実の生活をも救う神または仏・大自然)のもの、全体のものとしてお返しし、 許されて預かりものとして扱うこともあるが、一常に無一物の立場で路頭にいて、「路頭に迷う」のでなく、「路頭に帰る」のが人間本来の姿でなければなりません。

総路頭に立つ夫香さん照月さん
総路頭に立つ夫香さん照月さん

 「托鉢」ということも、天香さんの北海道での体験から生まれています。開拓事業の出資金と利子の問題から、人間の醜さ、生存競争の浅ましさというものを痛感せずにはおられなかったのです。

拝むというのは自分を無くするのです 自分を無くすると全体が自分である(天香さんの言葉)

これが路頭・托鉢の生活です。それで、一燈園生活を「托鉢の生活」ともいわれます。いわゆるお坊さんの托鉢とは違います。

 人を対立させ、醜い争いをさせるものはお金です。金のいらない生活はないものか。それは働きを金に換算しなくてもよい生き方でなければなりません。たとえば親と子、あるいは夫婦・家族のように、本当の愛情によって一つに結ばれていれば、働きをお金に換算しないで無償で、他に捧げていきます。愛は無償のものだからです。つまり、働くということは、儲けのため生きんがためではなく、自分が他の働きによって生かされているように、自分もまた他のために心と力をつくしていくことなのです。托鉢をすることなのです。

己が身はかえりみずして人のため つくすぞ人のつとめなりける(明治天皇御製)

 しかしそれを他の人に要求するわけにはいきません。まず自分からはじめることです。自分を無にしてすべてを他に捧げることです。それによってはじめて他と一つになることができるのです。一燈園では毎食後に右の歌を唱えています。

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一燈園(一般財団法人 懺悔奉仕光泉林) 〒607-8025 京都市山科区四ノ宮柳山町8番地の3 Tel 075-581-3136 Fax 075-581-3139